山川菊栄の生涯 『姉妹よ、まずかく疑うことを習え』

山川菊栄と言えば、戦前の女性運動の一人で、理論家山川均の妻であり、戦後は厚生省の初代婦人少年局長になった方ぐらいは知っていた。

また、晩年には『武家の女性』『幕末の水戸藩』の著書があったことも、橋川文三の本で読んだこともある。

神奈川の県立図書館を考える会に、山川菊栄記念会の山田さんが参加され、同会が持っていた膨大な資料が、様々な経緯を経たうえで、現在では一応県立図書館に収蔵されていることの話を聞いていた。

そして、このこと等を記念して1990年に作られたDVDがあり、上映会があるというので、暑い中紅葉ヶ丘に行く。

時間があったので、「戦時文庫」の目録を閲覧するが、いろいろと面白そうな本がある。

                       

東京の麹町に生まれた菊栄は、津田塾を出た後、26歳の時、講演会で山川均に会い結婚する。

山川均は、言うまでもなく「山川理論」の山川均であり、現在からみれば大衆との共同運動を重視する彼の理論の正しさは当たり前だが、大学教授でむしろ難解な論理を駆使する福本和夫の「福本理論」が日本共産党の正統な理論とされたのである。

このときに、戦前の左翼運動の将来は決まっていたと言えるだろう。

無知蒙昧な大衆を上からインテリが教化する運動としての左翼運動だったのであり、それは日本共産党から1970年代の過激派にまで続いていた。

実際に山川均は在野の方だったようで、彼と菊栄の周辺には、運動をする若い男女が集まってきたが、そこには共産党の「ハウスキーパー」のような陰惨な関係はなかったようだ。

その意味では、今日のフェミニズムに通じるものがあったともいえるだろう。

英語に極めて堪能だった彼女は、与謝野晶子と平塚らいてふの間で交わされた「母性保護論争」に「母性保護と経済的独立」で参加するなど、言論で有名になっていく。

勿論、逮捕投獄の迫害の受けるが、夫妻は藤沢市に住み、うづらの養鶏で生活を支えつつ、言論活動を進める。そして凄いのは、戦時中も英米の女性関係の雑誌等の文献を収集し、研究をしていたことである。

 それは戦後、GHQの指導で、厚生省に婦人局ができたとき、最初の局長になり、全国の女性運動を指導することになる。

しかし、主として旧内務省から移行してきた厚生省の官僚とは上手くいかなかったようで、GHQの占領方針の変化、吉田茂内閣の「独裁」の進行に伴い、局長を退職させられる。

要は、やはり在野の人だったのだ。

その後は、雑誌『婦人の声』の発行や婦人問題懇話会の設立などで活躍される。

この山川夫妻の生き方は、今では当然のことのようになっている、在野の、民間の社会運動の先駆けだったと言えるだろう。

彼女が収集した膨大な内外の資料は、以前は江の島の女性センターにあったが、様々な経緯を経て、現在は神奈川県立図書館にすべて収容されている。

収蔵にまでのことについても聞いているが、それは書かない。ともかく公的に保存されていることは良いことだと私は思う。

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