編集者の岸富美子さんが亡くなられたそうだ、98歳。
石井妙子が彼女を取材して書いた『満映とわたし』が出た時、次のように書いた。
家庭の事情から1935年15歳で、京都の第一映画に編集助手として入社した岸は、2年後の第一映画の倒産に会い、J・Oスタジオに移る。そこで、アーノルド・ファンク監督の『新しき土』の女性編集者アリスに会い、女性が男社会の映画界で立派に活躍している姿を見て、一人前の編集者になることを密かに目指す。そして満州に満州映画協会が作られ、兄弟からも誘われて富美子も新京(長春)の映画撮影所に行く。そこは、甘粕正彦の指導の下で、最新式の機材が備えられていた立派な撮影所になっていく。
だが、敗戦ですべてが変わり、当時は共産軍(八路軍)の支配下に満州はあったので、そのまま共産党の勢力下におかれる。だが、次第に国民党が侵攻してきて、共産軍は満州の奥地に逃げることになる。満映のスタッフは、共産党と付いて奥に行くのか、残留しさらに日本への帰国を待つのか、選択を迫られることになる。岸は、監督の内田吐夢、木村荘十二らと共に、映画機材と共に奥地に疎開することになる。内田も木村も、左翼的な思想だったので、実際の社会主義の実践を見たいという気もあったのだろうが、二人とも有名人だったので、多くのスタッフは彼らについて奥地に疎開する。
このとき、幸運にも早く日本に帰国できたのは監督の加藤泰、カメラマンの吉田貞次らで、彼らを受け入れる形で東横映画が作られる。
私は、東横映画、さらに東映は、満映の引揚者によって作られた会社と思い込んでいたが、それは全部ではなく一部の者だった。
だから、1950年代末になり、内田吐夢、木村荘十二、そして岸や彼女の兄たちが戻ってきたときには、東映は冷たくて、彼らを容易には入社させなかったのだ。
また、満映で、牧野満男が権力を振っていたが、ある時急に左遷されると、今度は映画法の施行で失業した松竹京都の人間が入ってきたということも知らないことだった。
つまり、満映は、国内で様々な理由で職を失った人たちの移籍の場になっていたわけで、その第一が、「共産党ギャング事件」の首謀者の大塚有章であり、岸の家の隣にいたそうだ。
内田はさすがに戦前からの大監督だったので、東映で監督することになるが、木村は独立プロの仕事になり、岸も左翼独立プロで編集者として活躍することになる。その前、岸は中国に残り、多くの日本人スタッフと共に、中国の映画製作を指導することになる。その一番有名な作品が映画『白毛女』で、これが彼女の編集とは初めて知った。
戦後の内田吐夢と木村荘十二の中国での生き方の違いも非常に興味深く、また戦後日本での内田吐夢作品には、ある種の虚無感があるが、それは中国での過酷な体験から来ていると書かれているが、それは正しいと思う。
日本と中国で映画製作に貢献された方のご冥福をお祈りしたい。