オリンピックと映画など関係ないようだが、日本では大きな関係があった。
東京オリンピックが開催されたのは昭和39年だが、このときが日本映画界では、作品的に見れば最高の時代だった。
すでに溝口健二、小津安二郎はなくなっていたが、戦前からの黒澤明、今井正、成瀬巳喜男らはまだ健在で、戦後派の岡本喜八、沢島忠、中平康、増村保造ら、さらに大島渚、篠田正浩らのヌーベルバーク派も元気だった。
総じて言えば、新東宝は倒産したが、まだ他の5社は健在で、その後すぐに訪れる映画各社の倒産など、誰も考えなかった。
そして、この39年以降、日本映画は完全に急下降するのである。
この年、大ヒットしたのは、日活の吉永小百合・浜田光夫の『愛と死を見つめて』で、当時は最高の5億円の配給収入だった。
この記録は、翌昭和41年に公開されたオリンピックの記録映画『東京オリンピック』の40億円で簡単に破られてしまうのは、実に象徴的である。
結局のところ、オリンピックのテレビ中継で日本人は、テレビの面白さに目覚め、タダで家で見られる映像に完全に移行してしまうのである。