久しぶりに歌舞伎座に行った。
夜の部で、『夜叉ヶ池』と『高野聖』、どちれらも泉鏡花原作。
『高野聖』は、市川海老蔵と坂東玉三郎で、海老蔵は高野山の修行僧宗朝、玉三郎は信州の山奥にいる謎の美女。
美女に誘われて、二人が入浴する場面が第一の見せ場。
そして、その美女の住む小屋にいる、馬や猿等の動物が、実は玉三郎の美しさに迷って契りを交わし、そのために動物にされた人間たちであることが、最後に明かされる。
確かに美女となら、動物にされても交わってみたいという欲望はあるだろう。
だが、高野山の修行僧の海老蔵は欲望に勝ち、無事難を逃れる。
「米倉涼子とはどうなった、佐藤江利子は」と一瞬言いたくなる。
海老蔵は、多分きちんと見たのは初めてだが、台詞が素直で、全体に演技が自然なのに感心した。少なくとも父親の団十郎よりは、台詞は遥かに良い。
間違いなく将来が期待できる。
『高野聖』は、1957年に滝沢英輔監督、月丘夢路主演で『白夜の妖女』として日活で映画化されているが、私は見ていない。
月丘なら確かに男なら誰でも誘惑されそうな美女である。
『夜叉ヶ池』は、従来玉三郎が主人公の百合と白雪姫の二人を二役でやってきたが、今回は若手の市川春猿と市川笑三郎の二人で演じる。
これも、深山に美女と学者が密かに住んでいて、そこに学者の友人が訪ねてくる。
日照りの生贄に美女をしようとすると、古からの言い伝えどおり、夜叉ヶ池が溢れ村を洪水で流してしまう。
白雪姫は、自分の恋を成就するためには、「村も大水でつぶれてしまえ」と言う。
女性の恋とはそうしたものなのだろうか。
これも、1979年に篠田正浩が松竹で映画化していて、玉三郎の主演で結構面白かった記憶があるが、ビデオは出ていない。
白雪姫に仕える動物、妖怪に三木のり平、唐十郎らが出てくるが、この動物が出てくる辺りで、私は意味が分からなくなった。
鏡花は、イメージ的に大きく飛躍するので、私のような常識的人間には時々付いて行かれなくなることがある。
新派の名作『婦系図』等でもそうだが、べらんめえ調と文語文が混ざった台詞の美しさ、面白さはすごい。鏡花で最大の楽しみだろう。
この2本は、元文学座の演出家石川耕史の演出で、あまり「歌舞伎的」ではなく、特に『夜叉が池』は、出演者の多くが若手であったこともあり、掛け声が出ないので、気分が出なかった。
掛け声も歌舞伎の大きな要素の一つなのだ。