『赤ひげ』

1965年に公開された黒澤明監督作品。
この後に『暴走機関車』騒動、『トラ、トラ、トラ』事件があり、黒沢は『どですかでん』まで5年間、公開作品が途切れてしまう。
また、三船敏郎の主演も、最後の作品になる。

長崎帰りの若い医師・保本登の加山雄三が、小石川養生所に入り、そこで新出去定・赤ひげの三船敏郎に会い、様々な経験を経て、人間として成長して行く、山本周五郎の原作。
黒澤明の「ヒューマニズムの押し付け」、三船の「スーパーマンのような説教と造形が不快」と公開当時言われたが、『天国と地獄』から2年ぶりの黒澤映画で、三船敏郎、加山雄三の他、田中絹代、桑野みゆき、藤山陽子、内藤洋子、香川京子、笠智衆らスターの出演でヒットする。
だが、現在見ると相当に時代とずれていたと思う。

加山雄三が経験し、ドラマの核となる様々なエピソードがどれも「貧乏話」なのだ。
これでもか、これでもかと貧乏、家の貧しさに由来する悲劇が積み重ねられる。
同時に、それでもある人の心の美しさ、健気さが表現される。
だが、三船敏郎、加山雄三の大スター、異常に牛肉を自家で大量に消費し、税務署が調査に来たと言われる黒澤明が貧乏を表現しても、どこか嘘くさい。
この時期、日本は高度成長の真っ最中で、日本人は自信に溢れ、無責任シリーズの植木等のように国中を飛び歩いていた。
そこで、こんな貧乏を基にした人情話を展開しても、感動は薄かったろう。
この中で、貧乏について云々してリアリティのあるのは、辻伊万里、七尾玲子、野村昭子、三戸部スエら、賄いのおばさんたちだけである。

そこで、駆使されるのが、異常なまでの細部への拘り、表現の徹底性である。
この時期の黒澤映画の特徴として言われるのが、美術の細部への拘りや照明、撮影技法の徹底性である。
黒澤が先頭に立って黒光りするまで磨き上げる木造のセット、中まで彩色された薬箱の棚など。
杉村春子の因業婆に酷使され、心が捻じ曲がった二木てるみの内面を表現するために目に当てられるライトの至芸。
凝ればころほど、映画の世界は閉ざされ異常性に傾斜する。
全く自己解放されない映画である。

また、この作品の主要人物が、自己の過去の行動に悔い、謝ってばかりいるのが大変気になった。
それは、戦後一貫して自己の行動を悔いている主人公の黒澤映画の中でも、極めて多いように思う。
最後、内藤洋子との仮祝言の席に、内藤洋子の姉で加山雄三を捨てた藤山陽子が出てくるが、こんなことが江戸時代に本当にあっただろうか。
山本周五郎の原作から、どうのようにエピソードを取捨選択しているのかが、気になった。

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