不条理劇としての因果物

『薔薇の葬列』の前に、松本俊夫が劇映画第二作目としてATGで作った『修羅』を見る。
『修羅』は、公開時に蒲田のヒカリ座で見ていて、隋分変わった作品だと思ったが、今回見てもあまり良い映画とは思えない。

歌舞伎の忠臣蔵外伝の鶴屋南北作の『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)を石沢秀二が脚色し、青年座で上演したのを映画化したものである。
主演は中村賀津夫と唐十郎、そして民芸の女優だった三条泰子。

今回見直してはっきりと憶えていたのは、最後三五郎の唐十郎が棺桶に入り、自害し桶のタガを破って出てくるところだけだった。

これを見ていて思ったのは、すべてが因果に結びつき、どうにもならない結末、悲劇となるのは、一種の「不条理劇」なのではないか。
果たして、この世のすべてが、因果に結びつくかは分からないが、江戸時代の人間がそう思っていたのは事実だろう。
黙阿弥や南北の劇を、一種の不条理劇として見れば、大変なものだと言えるだろう。

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