『夜の来訪者』

イギリスの劇作家J・P・プルーストリーの戯曲を内村直也が日本の話に翻案したものの、段田安則演出による上演。
1951年の俳優座以来、多くのところで上演されているらしいが、私は初めて見る。
プルーストリー作品は、世界戯曲全集にも載っていて、どちらかと言えば左翼的作家とされていたが、実際に見てみると所謂ウエルメイド・プレイであり、すぐれた推理劇。左翼作家とはいえ、こうした上手い作品を書くのには、イギリス演劇の底力を感じる。

ある地方都市、市公安委員も勤める会社経営者・高橋克実の家、妻の渡辺えりは、市の慈善協会の副会長も勤めている。
娘の坂井真紀が、ライバル会社社長の息子岡本健一と婚約した夜、刑事段田安則が来る。彼が、来訪者。
彼は、一人の若い女性が自殺したことを言う。
その女は、高橋の会社でストライキをやってクビになり、デパートに勤務するが、そこも解雇され、最後は売春婦に転落していた。
デパートをやめたのには、坂井も関わっていたことも判る。
そして、岡本もある時期、彼女と関係していたことが判明する。
さらには、渡辺えりも、彼女と会っていたことが分かって1幕終わり。

2幕目では、一人息子のどら息子八嶋智人が、実はその女と深い関係があり、妊娠させていて、その相談に慈善協会の渡辺のところに来て、公的援助を断られ絶望して自殺したことも判る。
つまり、すべての者が彼女の自殺に関係していたのである。

ここで、作者が言いたいことは、言うまでもなく階級的問題とされてきた。
刑事は言う、「彼女のみならず、すべての人の問題に私たちは関係しているのだ」劇が書かれたのは1945年で、イギリスの階級差別は当時は今とは比較にならないほど大きかった。
その中で、作者は互いに相手を思いやることの重要さを訴えている。
俳優座のみならず、この戯曲は旧ソ連で頻繁に上演され、映画化もされていた。

だが、今回見て思ったのは、確かに階級的問題もあるが、もう一つ八嶋、坂井、そして岡本らの若い世代と、高橋、渡辺の両親の旧世代との対立と若者の性道徳の変化である。
つまり、1950年代末のイギリスの「怒れる若者たち」、アメリカの『理由なき反抗』に代表されるジェームス・ディーンら、日本の石原兄弟ら太陽族、ブラジルのボサ・ノバに結実する都市の若者たち等の、新しい戦後世代の動きの前兆を表現していたと言うことである。

翻案の内村直也は、戯曲、小説、翻訳、演出、作詞等をしたが、劇団民芸の演出家菅原卓の弟だった。そして、菅原家は会社経営者で、彼らは裕福な生まれ育ちだった。
兄弟は新劇界にあったが、きわめて常識人としてのセンスのある作品を残している。この作品も、地方の会社社長一家を舞台にしているのは、内村ならではであろう。
だが、イギリスの上流階級は描けていないのではと思った。
イギリスの階級差は今も大きなものである。
例えば、言葉の言い方一つを取っても上流階級とその他では随分違うようだ。
そのことがよく判るのは、キャロル・リード監督の映画『フォロー・ミー』がある。
カルフォルニアから来たフラッパー娘ミア・ファーローが、マイケル・ジョンストンの属するイギリスの偽善的な上流階級社会に入った時のちぐはぐさ、ああいう感じは残念ながら、ここでは描かれていなかった。
以前の俳優座等では、どのように表現されたのか、疑問に思った。

役者では、段田の一人舞台に近いが、高橋や渡辺が上流階級の人間には見えないのは仕方なしか。
坂井は演技がうるさすぎるが、将来性は感じた。今後、若手女優の中で貴重な存在になるだろう。
紀伊国屋ホール。

帰りは、新宿からバスで品川まで行き、北品川のいつもの居酒屋で飲んで戻る。
店の話題は、中川昭一君のことばかりだった。

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コメント

  1. 「夜の来訪者」

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