近年、生別不明高齢者の問題等から、大都市において「無縁社会」が言われ、世も末だとされている。
だが、これこそ近代の日本で、知識jんたちが求めて来たものである。
英国への留学で夏目漱石がロンドンで感じ、ノイローゼになった英国社会の冷たさ、個人主義の冷徹さ、それが近代の市民社会というものであり、それを耐えるのが自立した個人と言うものである。
丸山真男や大塚久雄らが、いつも嘆いていた「日本はまだ近代化されていない」と言うものは、まさに今実現されている。
だが、その代わりに無縁社会を迎え、この孤独に耐えるのが、近代市民社会というものなのである。
コメント
Unknown
「無縁社会」と「近代市民社会」を同じだとするかのような表現・意見には賛成できません。「無縁社会」とは、正しくは「孤立無援社会」でしょう。「近代市民社会」も、個人よりも家や地域共同体が優先・重要視される社会を前近代として、それより「進歩」した社会という意味だと思いますが、それには自立した個人、一人でも生きていける市民が多数になって成立する社会であって、それにはフランスのように王政を打倒した経験のない国民には、無理でしょう。今の日本は、まだ近代市民社会ではないです。「七人の侍」の百姓たちが自分で村を守ることもできず、助けてくれる侍とも出会えない――そんな実情が孤立無援社会ですね。まあ、百姓じゃない人には、実感がわかないでしょうが。
さすらい日乗さんの芸能批評は共感するところが多いですが、管直人に期待するって、本気ですか、皮肉ですか?
国家権力からの自由に価値を見出し、高齢者が所在不明になるのをよしとする文章を一度は書いた人が国勢調査に協力を呼びかけるのも、自己矛盾だとお考えにはなられませんか?