引き続き、神奈川芸術劇場でのTPAMに行く。
こういうフェスティバル、見本市の良いところは、それぞれのアーチストの本質が、単独の公演よりも極めて明瞭に分かることである。
それは、フスティバル形式だと、自分の見せ場を直接的に出さねばならず、それが各自の本質を見せることになるのだと思う。
今日は、ロボット演劇なるものを2本見た。
平田オリザのアンドロイド演劇『さようなら』とロボット演劇『働く私』である。
『さようなら』は、アンドロイドも外人女優も台詞がよく聞こえず、何を言っているのかよく分からず、半分以上は眠ってしまったので、評価はしない。
催眠術芝居とでも言うべきだろうか。
平田オリザの芝居は、1993年の『ハトヲ飼ウ』から何度か見ているが、今回で、彼の本質がよく分かった。
平田は、大変な山師だと言うことである。
口語体演劇から芸術立国論、鳩山由紀夫前内閣参与や「はとカフェ」の企画、そして今度のロボット演劇に至るまで、すべて何か新しいことをやっているように見せる宣伝、広報能力は抜群にすごい。
まるでヒットラー政権の宣伝省ゲッベルスのようなものである。
今回のロボット演劇『働くぼくら』も、あるいはコンピューターに入力されたプログラムでロボットが演技しているかのように宣伝している。
だが、見たところ、動きはプログラムで操作されているかもしれないが、多分あれは裏で普通の役者が台詞を言っているのだと思う。
あるいは、プログラムされた動きや台詞をロボットにやらせることは可能かもしれない。
だが、そんなものが面白いだろうか。
何よりも芝居もライブの一つであり、そのときの役者の感情、気分、相手役とのやり取り、観客の反応等々で変わって行くのが生きた演技と芝居の面白さである。
本来でき不出来があるのが演劇であり、野球のようなスポーツでも同じである。
勿論、平田オリザの芝居はいつも死んだような退屈劇なのだから、当然かもしれない。それなら戯曲を読むこととどう違うのだろうか、教えてもらいたいものである。
ロボット演劇は、まさに詐術と言うほかはない。
日本の中世に、傀儡子と言うのがいた。
人形を使って芝居、寸劇のようなものを街頭で見せる芸人だった。
それは、しばしば呪術のようなこともしたが、江戸時代になり人形芝居、浄瑠璃になったとも言われている。
平田オリザがやったことは、この傀儡子、あるいは昔結城人形座がやった人形と人間との芝居と同じである。
日本映画界の言葉に「古いことを新しく見せると当る」と言うのがある。
内容は古いが、それを新しい形式で見せるとヒットするという法則だが、平田のロボット演劇はまさにこれである。
内容は、うつ病で家にいる男と妻の話で、2機のロボットがいて、彼らが家事や料理をしてくれると言うものだ。
失業中の家でロボットが買えるのか不思議だが、そんなことはどうでも良い。
ともかく退屈で面白くないのである。
山師・平田オリザ先生の次の活躍の場はどこか。
彼は極めて政治的な人間なので、この際、候補者が決まらなくて困っている民主党の東京都知事選挙に出ていただくことだと私は思う。
平田候補のご健闘を祈る。
神奈川芸術劇場 大スタジオ