民衆蜂起への思い 『槍おどり五十三次』

昭和21年11月に公開された市川右太衛門主演の作品。
長谷川一夫主演の『長崎の夜』が、森一生には珍しく、ひどくつまらない映画だったので、帰ろうかと思ったが、これは見て得した。
こういう映画を見たときは、おおげさに言えば「生きていて良かった」と思うものだ。

江戸の長屋の人足の市川右太衛門は、気のいい愛嬌のある男、殿様の行列の先頭で槍を振るのが特技で、まるで舞踊のようだ。
舞踊のような武術のような体技は、近世社会にはあり、ブラジルにもカポエイラという武術ともダンスとも思えるのがある。
右太衛門は、法被の丈が短く、お尻がチラチラ見えるのが粋である。
全体の感じは、山中貞雄ら「鳴滝組」のような、市井の人間の哀歓を描くもの。
市川右太衛門が、『旗本退屈男』の大芝居ではなく、軽く演じているのが新鮮。

人足は、親分の家で籤で仕事を決めるようになっている。この辺の時代考証は、脚本が伊藤大輔なので、正しいのだろう。
あるとき、右太衛門らは、九州に行く1万石大名小此木家の行列の荷物担ぎに当る。

彼は、相思相愛のお弓と別れ、相棒の伊志井寛らと一緒に東海道を行く。
もちろん、槍持ちは右太衛門。
大名の行列と言っても、たった7人で、ある宿場で偶然本陣が空いていたので、そこに泊まることになる。
ところが、そのとき右太衛門は、足の爪を剥して、行列から遅れて歩いていた。

その本陣に98万石の大名の一行がやって来て、「本陣を明け渡せ!」と言う。
そのとき、「われわれは小藩だが、徳川家康公から拝領の槍を持って来ている」と嘘をつく。
仕方ないので、老人同士が話し合って100万両の金で方をつけ、一行は本陣から旅籠に移る。
だが、それを知らない右太衛門は、遅れてきて本陣に槍を置いて来てしまう。
すぐに槍が本物でないことが分かり、大問題になる。
ここまで書くと、伊藤大輔作品で、大川橋蔵の『この首1万石』や、戦前・戦後に作られた『下郎の首』に似た主題であるが、この筋は書かない。

だが、最後は、別の人足の頭領月形龍之助らの計らいで、槍も戻り、市川右太衛門も助かる。
これは何を意味しているのか。
公開の昭和21年11月と言えば、日本国憲法が公布されたときであり、戦後の民主主義改革への思いがきわめて強かったときである。

小此木家の侍たちから切腹を強要されたとき、右太衛門は、敢然と撥ねつける。
この槍のトラブルによる切腹の強要は、つい1年前まで日本人全員が強いられていた、一億玉砕、特攻であり、そこへの強い批判が込められていると私には思えた。
月形龍之介の配慮で、人足たちが槍を取り戻し、旅籠に戻って来るときの「わっしょい」の行進には、民衆蜂起への、伊藤大輔や森一生らの思いが込められていたと思う。
フィルムセンター

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