音楽評論家で、雑誌『ミュージック・マガジン』の創始者だった中村とうようさんが亡くなられた、79歳。
私も、音楽の見方のみなら、映画、演劇等の批評の仕方に大変大きな影響を受けた方であり、自殺とは大変驚いた。
だが、いかにも中村とうようさんらしいと思う。
なぜなら、中村とうようさんは、悪くいえば極めて自分勝手、よく言えば、大変自由で独創的な人だからである。
以前、編集部にいた藤田正さんに聞いたことがあるが、ミュージック・マガジン社での、とうようさんの言動も大変ユニークなものだったらしい。
大変感情の起伏の激しい人で、会社に来て、ずっと社員に怒ってどなり続け、そのまま帰ってしまった、などということもよくあったとのこと。
マガジンの創設から、ロック、アフリカ音楽、そしてワールド・ミュージックへと、世界のポピュラー音楽への私たちの興味を広く開いたとうようさんの見方も、極めて独創的でユニークなものだったと言えるだろう。
そして、今度は自分の道を一人で行ってしまったことになる。
7月22日の東京新聞朝刊の中村信也さんの記事には、とうようさんは「絶望したからではない」と関係者に宛てた遺書には書いてあったとのこと。
やるべきことはやったという感慨はあったのだろうと思う。
それは、今年、武蔵野美術大学に、中村とうようさん自身が持っていた膨大なレコード等のコレクションを寄贈されたことである。
昔から、自分の膨大なレコード、楽器等のコレクションをどうするかは、とうようさんは大変心配されていた。
実は私がそれに呼応し、横浜に「ポピュラー・ミュージック・ライブラリー」を作ろうとし、中村とうようさんと何度か話しあい、関係者に集まってもらったこともあった。
残念ながら、それは私の能力の不足と、時期尚早でできず、その後とうようさんが一人でいろいろなところを探した挙句、やっと武蔵野美術大学に決まったとのこと。
私のお詫びを除けて言えば、とうようさんの長年の思いが一応成就し、これでやるべきことは終わったと思われたのかもしれないと思う。
とりあえず、日本のポピュラー音楽に偉大な足跡を残された、中村とうようさんのご冥福を心からお祈りする。