東京演劇アンサンブルが、今回アーノルド・ウェスカーの三部作の内、『大麦入のチキンスープ』と『僕はエルサレムのことを話しているのだ』を上演し、後者を見た。
この2本の間に『根っこ』、ルーツがあり、この劇について、ウェスカーは、小津安二郎の『東京物語』の緩いテンポが作品に大きなヒントを得たと言っているのは、有名だろう。
さて、この『僕はエルサレムのことを話しているのだ』は、1946年夏、イギリスの総選挙で、労働党がチャーチルの保守党に勝った時から始まり、1959年に保守党に敗れるまでの、イギリスの下層階級のインテリであるディブとアダのシモンズ夫妻のことを描いている。
戦時中は、従軍してインドに行き、戻ってきて工場に勤めたが、その搾取される労働が嫌になり、ディブは、田舎のノーフォークに行き、そこで初めは農場の労働、それがうまくいかなくなっては、手作り家具の仕事をして、あたかもウィリアム・モリスが提唱した理想の生活をしようとする。
もちろん、それはうまく行かず、最後はロンドンのアパートの部屋で注文仕事をすることになる。
ここには、様々な問題、課題があり、それを一口には言えない。
ウェスカーは、1960年代は、日本でも行き詰った社会主義リアリズムに代わる希望の劇作家のようにみなされた時代がある。
私が所属していた学生劇団は、私が入学する数年前に『大麦入のチキンスープ』と『僕はエルサレムのことを話しているのだ』を上演していて、1966年の春には、つまり私が入学した時には、『根っこ』をやったのだが、その時はまだ映画研究会にいて、演劇研究会には入っていなかったので、見ていないが、ともかく当時ウェスカーは、一番人気のある劇作家だった。
後の黒テント、佐藤信、津野海太郎、山元清太らの演劇センターは、明らかにウェスカーたちのイギリスでの演劇運動(演劇運動と政治運動の協同)を意識して模倣しようとしたところがある。
もちろん、成功しなかったが。
数年前に、蜷川幸雄がシアター・コクーンで、まるで男版の宝塚のようにして、ウェスカーの『キッチン』を上演したことがある。
結構面白くて、これでやっと政治的見方ではなくて、きちんとウェスカーを評価できる時代が来たと思った。
だが、今回のようにきわめて政治的メッセージ劇のように演出されては、時代は逆に戻ってしまったのか、としか思えなかった。
そして、この3部作を通じての主役であり、多分ウェスカーも精神のよりどころとしてのは、ユダヤ人の母親サラ・カーンだとあらためて思った。
ブレヒトの芝居小屋