石井隆さん

石井隆氏には、学生時代に一度だけ会ったことがある。

1966年の終わりか、1967年の始まり頃、私は当時すでに映画研究会から劇団演劇研究会に移っていたが、ある日久しぶりに映研の部室に行った。

部長の曽根益男さんがいて、そこにおじさんのような学生が現れた。

それが石井隆で、学年は1年生だったと思うが、何浪かしていて、年は随分上に見えたが、私より1歳上だったらしい。

彼は、映画がもちろん好きで、シナリオ研究会に入った。

シナリオ研究会は、大和屋竺や田中陽造も出た名門サークルだったが、文学部のサークルであり、全学部の映画研究会とは少し違った立場にいた。

彼によれば、

「シナ研は、完全に革マルのサークルになり、嫌になったので、映研に入りたいので来た」とのことだった。

それは驚きで、サークルを支配するなど、いかにも革マルのやりそうだが、随分な話で、それは彼らの一種の焦りから来たものかもしれないと思った。

と言うのも、当時早稲田は革マルの最大の拠点で、文学部の他商学部の自治会も押さえていた。

ただ、各サークル等の文化団体には、革マルアレルギーが強く、その集合体である文化団体連合会は、ほとんど反革マルだった。

そこで、彼ら革マルには、サークルに拠点を作りたがっていたのだろう、そのひとつがシナリオ研究会の完全支配だったわけである。

石井さんは、当時すでにアルバイトとして、ピンク映画で撮影の助手等をやっているとのことだった。

曽根さんと3人で、高田馬場駅まで歩く間いろいろと話したが、そうした「町場」の話しも大変興味深く、随分大人だなと思った。

その後、石井さんは、映研にいた金子裕君と組んで、週刊誌の仕事を始め、そこには、意外なことに、『釣りバカ日誌』のやまさき十三もいたそうだ。

金子君が記事を書き、石井さんが写真を撮るというルポだったようだが、それを知ったのは、つい最近である。

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