「演歌はいつできたのか」などと書くと、それは日本人の心であり、昔からあると思うわれるに違いない。
だが、それは全くの間違いであり、『わが命の唄・艶歌』が映画化された1960年代の後半頃に新たに生まれた「音楽ジャンル」なのである。
嘘だと思うなら、輪島裕介の『創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)でも読めばすぐに理解されるだろう。
確かに、明治時代に「演歌」はあった。
それは自由民権運動の中で、民権運動の壮士らによって始められた民権思想普及のための演説の歌としての演歌である。
主にそれは、集会や街頭での演歌士による唄本の販売によって普及し、流行した。
だが、昭和に入り、歌の流行はレコードの販売によることになる。
ここでレコードの初期の世間で流行している歌や音楽をレコードにして売ることから、売るための音楽を作り、それをレコードとして販売するようになる。
だが、昭和初期の二村定一の大ヒット曲『君恋し』などを聞いても、それは演歌的要素は全くなく、リズムはフォックストロットで極めて洋楽的である。
それは、戦後になっても同様で、美空ひばりのヒット曲も多くは、洋楽的である。
すると古賀政男はどうだという反論があるかもしれない。
だが、彼の作品でも藤山一郎の『東京ラプソディー』を聞いてもきわめて明るく、軽くて、どこにも演歌的な情緒はない。
1960年代は、言うまでもなく経済の高度成長時代であり、日本の農村から多くの若者が大都市に移動した。
図式的に言えば、そこで彼らが享受層となったのが、日本的情緒を過剰に強調した音楽ジャンルとしての「演歌」で、当時新たに創り出されたのである。
『艶歌』の原作者である五木寛之は、演歌を、艶歌、あるいは人生の応援歌、ときには恨歌だと、あたかも演歌が昔から存在したように書いた。
だが、それは彼の願望であったかもしれないが、実態とは大きく異なるものなのだ。
一般に、大衆音楽の中で、時代が下るほどに民族的になることはよくあることである。
例えば、ジャズでも、初期のデキシーランドジャズは、楽器編成、楽曲構成などほとんど西欧音楽であり、非西欧音楽と言えるのはリズムくらいである。
それがスイングを経て、ビバップ、モダン・ジャズ、そして1960年代以降の前衛ジャズになるに従って、非西洋音楽的、アフリカ的になっていく。
アフリカン・アメリカンとしての自覚の中で生まれてきたものであることは、言うまでもない。
アフリカのポピュラー音楽においても、新しくなるほど民族的な色彩の音楽になることはよく見られるのである。
つまり大衆文化においては、時代を経るにつれて、民族的要素を発掘し、取り入れるようになるのである。
演歌も、1960年代後半に、日本社会から急速に日本的要素が消滅していく中で、創り出された日本的情緒であると言えると私は思う。