宮崎駿監督作品の総てを見ているわけではないが、『風の谷のナウシカ』以来、素直に宮崎駿の世界に感動できた。
それは、余り奇をてらわず、妙に小難しいことを言わず、比較的自然に物語を語っているからである。
もちろん、それはメカニズム好きの宮崎による素晴らしい描写と、飛翔することの憧れ、主人公堀越二郎と薄幸の女性菜穂子との恋と結婚を普通に描いている。
だが、よく見ると、この映画は、その二人や周囲の人間を通して、現在の戦後の日本社会とは全く異なる社会だった戦前、戦中期の日本の総体を描き出していると言える。
二郎や菜穂子は、言うまでもなく戦前の社会では、中流から上流に属する人間である。
その周囲には、女中、婆や、小遣のおじさん、さらに町には職工、職人、土工などの労働者、工場には恐らく高等小学校か、せいぜい中学卒の職員が働いている。
そして、この映画を見て、すぐに感じたのは、明治の作家樋口一葉の世界である。
一葉の世界は、上は華族から、下はその日暮らしの最下層の人間たちまで、明治時代の日本の社会の総体を書き込んでいる。
それは、一葉が初めは華族の姉弟が来るような中島歌子の歌塾に通い文学の道を志すが果たせず、吉原の雑貨屋で生計を立てざるを得ず、そこで東京の最下層の人間たちを見たことによる。
つまり、樋口一葉は、明治時代の日本の上から下までを見聞することを体験することによって、数々の名作を生み出したのである。
宮崎作品も、戦前の総体を描き出しており、これは他の日本映画では見られなかった大変な成果だろう。
現在では、町の人間を見ても、その人がどういう職業で、どの程度の階層、地位に属するのかは、ほとんどわからない。
だが、戦前までの日本社会では、その人間が属する社会、階層、地位によって明らかに服装が異なり、乗る乗り物には、等級の区別も厳然とあった。
もちろん、それは戦後の民主化によって崩されたものであり、基本的には非常に良いことである。
そして、言わばきわめていびつな国の日本で、そのエリート技術者たる堀越二郎らが作り出すのは、奇跡の飛行機・零式戦闘戦である。
その特徴は、究極までの職人的技巧と様々な工夫によって作られた機能の高さと機体の美しさにある。
「貧者の原爆」という言葉があるが、貧困な国家ほど、国民の福祉は犠牲にして、すべての機能、利益を、原爆等の兵器の開発に捧げることがある
北の首領様の国が現在では典型だが、戦前の日本は「貧者の零戦」だったのかもしれない。
戦争が始まり、1機の零戦も帰還することなく、無数の機体の残骸が重なった廃墟で、イタリア人飛行技師カプローニに堀越二郎は言われる。
「君は生き抜くんだよ」
この台詞を聞いたとき、森本薫作、杉村春子主演の名作戯曲『女の一生』のラストシーン。
「誰のものでもない、私の一生ですもの」を思い出した。
これだけの仕事をしたのだから、宮崎駿が、長編アニメ監督から引退したいと表明したいのも無理はないと私は思う。
上大岡東宝シネマ