『日露戦争 勝利のあとの誤算』 黒岩比佐子(文藝春秋)

先日の鬼子母神の「みちくさ古本市」で買った文春新書。

1905年、日露戦争が終わったとき、講和反対で日比谷等の東京の中心で、大暴動が起きた。所謂「日比谷焼打ち事件」である。

昔から、この数万人が参加したいう暴動がどうして起きたのか、非常に不思議に思っていた。

いくらなんでも、そう簡単に数万人の動員はできないし、単に数時間ではなく、数日にわたる暴動もないからである。

そこには、計画的な全国からの動員と扇動、さらに日露戦争の勝利(実は勝利ではなく、引き分けぐらいで)日本はもう戦争を継続する力はなかったのだが。

今とまるで異なり、政府は一切情報を明らかにせず、都合の良いことばかりを公表していたので、国民も新聞社、さらに文化人も、日本が完全にロシアに勝利したと思い込んでいた。

ロシア強硬派の代表で、国民を先導した文化人の代表である、東大教授の戸水寛人は、「賠償金30億円、樺太・カムチャッカ・沿海州全部の割譲」とぶち上げていたのだからひどい。

だが、東京帝国大学の先生が言うことだからと、素朴な国民は信じようとしたのだろう。

この戸水寛人ら「七博士」の提言は有名で、映画『明治天皇と日露大戦争』でも描かれていた場面である。

講和会議代表の小村寿太郎がアメリカから帰国し、ポーツマスの講和の中身が明らかになると、俄然屈辱的講和反対の運動が起きるというか、起こされる。

その中心になったのは大阪と東京の朝日、東京日日等の新聞であり、志士的な政治家たちだった。

その中には、小泉純一郎元首相の祖父で県会議員の小泉又一郎もいて、彼は新富座での演説会で警官隊と衝突し、柱に繋がれてしまったという。

また、日比谷の焼打ちでは、市電の電車が襲われ、焼かれたが、それを行ったのは、人力車夫等の下層の雑職層だったという。

この明治の末には、市電が整備され、それによって失業した人力車夫らが、その反感から電車を焼打ちしたというのだ。

人力車夫は、明治になり、地方から出てきた一旗組、あるいは地位を失った武士の師弟等が最初に手がけるのに最適の職業だったので、それが市電という近代的な機械によってできなくなったので、彼らの不満が電車に向けられたのだそうだ。

彼らの不満が集中したのも当然のことだろう。

この事件の時の首相は、長州の桂太郎で、ニコポンの本領を発揮し、彼は巧みに上層部を工作しつつ、暴徒には戒厳令で暴圧する。

さらに、民衆の怒りを、陸海軍の凱旋行事への熱狂で冷ましてしまい、政局を乗り切り、西園寺内閣へとつなぐことに成功する。

彼の愛妾「お鯉」の挿話も面白いが、各新聞が、このお鯉のことを盛んに報道しているのが笑える。

                           

    

この日露戦争の結果起きたのは、桂太郎に巧みに懐柔され、棚上げされることになる、伊藤博文、山県有朋ら維新の元勲の政局からの退場であり、暴動に象徴される国民、民衆の台頭だった。

この本は、アカデミズムからはどう評価されたか知らないが、明治末の日本の政治、文化、社会を広く描いた本として大変評価できると思う。

ただし、作者の黒岩比佐子は、2010年10月に52歳で亡くなられているが、誠に残念である。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする