日本映画学会で発表する

先週の土曜日は、大阪豊中市の大阪大学で開催された日本映画学会第10回大会で、次のような発表をした。
ただ、会場に行くまでが実は大変だった。
この日の朝、関西で働いている次女とホテルで会って朝食を取って阪急宝塚駅に行く。
と止まっているので、JRで川西池田まで行き、タクシーで阪大に向かうが、運転手が場所をよく知らない。
なんとか、石橋駅近く向かい、阪大下で下りて自転車屋で聞くと、坂の上だとのことだが、そこから約15分かかってやつと会場に着く。
第二会場の3人目で以下のことを話した。

  『黒澤明の十字架』    反響と、その後明らかになった若き日の黒澤明

1 1995年に見た『静かなる決闘』の不可解さ

  悩んでいるだけで行動しない主人公で医者の三船
  他の黒澤映画にはない三船  梅毒に悩んでばかりで終わるドラマ
  黒澤らしさ、ダイナミックなアクション、ドラマチックな筋の展開がない映画
  三船の苦悩の意味はなにか どの黒澤本にも書いていないこと
  1991年の『夢』の第4話「トンネル」の不気味さを思い出したこと

2 黒澤明プロフィール

1910年3月生 父黒澤勇は陸軍戸山学校から日本体育会(日体大の前身 創設者日高藤吉郎)創立に参加
  日本体育会の官舎(東大井)で生まれる 森村小、黒田小から京華中学 芸大受験に失敗
  私立画塾からプロレタリア美術研究所に、無産者運動にも参加 兄の神楽坂の下宿に居候
  兄の自殺から3年後1936年にPCL助監督 1943年3月『姿三四郎』で監督デビュー
森岩雄と黒澤兄弟 映画説明者だった黒澤丙午(須田貞明) 共に映画雑誌の投稿少年だった森と丙午

3 映画界での徴兵のさまざま

  黒澤の徴兵検査『蝦蟇の油』での記述 宇垣軍縮時代だった1930年(翌年満州事変)
  「成人男子の80%が徴兵」(加藤陽子) 小津安二郎、木下恵介、今井正、新藤兼人(丙種)
  召集延期の例(宮島義勇)、東宝にいて延期を示唆された石井輝男と広澤栄(2人は徴兵されるが)
  召集延期の実例(軍需工場の高級技術者など 総力戦遂行のため) 
山中貞雄の徴兵と死(1938年9月河南省開封市で病死)
  
4 東宝航空教育資料製作所(戦後は新東宝撮影所) 軍需企業だった戦前の東宝

  1939年に東宝幹部出資で合資会社映画科学研究所として発足 1940年『海軍爆撃隊』『馬』
  1941年航空教育資料製作所になり、多数の「教材映画」を作る
  『水平爆撃理論』、『大いなる翼』、『海軍航空戦・母艦部隊編』など50本以上を製作 戦後全部焼却
  課長円谷英二で、特撮、線画、実写で軍事マニュアル映画を作る 戦後の東宝特撮、立体映画技術の元  
後発企業だったために各所からの多彩な人材 プロ・キノ、井深大、滝口修造、山下菊二、うしおそうじ
  日活、松竹などが手を出していない軍部や国を注文主にしたこと
  戦後の東宝ストの原因になる(従業員230人) 東宝教育映画社  左翼独立プロも生む

5 『一番美しく』(1944年4月)の特異性
  
  現実逃避の娯楽映画の『姿三四郎』『続・姿三四郎』 本来はアクション映画監督の黒澤
  時局便乗的で記録映画的な『一番美しく』 
  雑誌『新映画』での大黒東洋士のルポ(訓練等まるで女子挺身隊指揮官の黒澤)
  本物らしさの追求、女優くささを消すこと  後の『トラ・トラ・トラ!』での素人の起用
  兵役につかず、戦意高揚映画を作った「やましさ」が戦後の『わが青春に悔いなし』等になる
  民主主義と反戦を謳うことで、戦中期の罪が贖罪されると思っていたのだろうか

6 東宝ストライキと作家主体の確立

   1948年4月~8月第3次スト「来なかったのは軍艦だけ」の敗北  組合側だった黒澤
組合派との認識の差異 「自己の罪を描かないと前には進めないこと」
  『静かなる決闘』『野良犬』『醜聞』『羅生門』 罪ある存在としての人間と贖罪がテーマ
 『羅生門』のときテーマを聞きに来た助監督田中徳三、若杉光夫(加藤泰)
 「本当のことは言えない」という黒澤のテーマの特珠性    黒澤の戦争体験の特殊性
  ワン・ステージ上り、「贖罪から他人のために行動にする、自己犠牲」の『生きる』と『七人の侍』 
『七人の侍』 ラスト・シーンの勘兵衛(志村喬)の台詞が重要
本当は「勝ったのは百姓たちだ」ではなく、「戦ったのは百姓たちだ」と言いたかったのではないか
戦争を本当に戦ったのは、黒澤もそうだった指導者層ではなく、国民一人一人だと
『生きものの記録』の大不評と複数脚本家制で黒澤の贖罪意識は後退して行く
『用心棒』『椿三十郎』は、黒澤映画というよりも脚本の菊島隆三の映画であること
一人で脚本を書くようになって再び出てくる「贖罪意識」   『影武者』『乱』『夢』

7 現在から見る黒澤作品の意義

  黒澤作品は近代以降の日本の歩みそのものだったこと
  『姿三四郎』  明治・大正期の、新興国・日本の明るさと若さ
  『一番美しく』  戦中期の狂信性
  『わが青春に悔いなし』以降『生きもの記録』まで  戦争の反省と平和の希求
  『どん底』『蜘蛛巣城』『悪い奴ほどよく眠る』  普遍的主題の表現と技術的熱中(相対的安定)
  『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』の映画技術的完成  日本企業の技術的優秀さ
  『赤ひげ』での主題の喪失と以後の混迷  「失われた20年」の先取りの象徴

 誰も、戦争の責任を取ろうとしなかった戦後の日本で、黒澤明は作品の中で自分の戦争責任をとろうとした。それが彼の作品の倫理性である。また、戦後の彼の優れた作品が、世界の映画のなかで高く評価され、同時に日本映画の巨人として屹立している所以である。 P183                                 

黒澤明は、近代以降の日本と日本人が、最大の歴史的事件として体験した太平洋戦争を、内面化し、映画化した多分唯一の映画作家である。その映画は「平家物語」のごとく、国民的記録として永遠に残るに違いない。  P208                      
  
8 出版後の反響

  佐藤忠男、出久根達郎、伊達政保、服部宏氏らから「従来にない黒澤論」の評価
 「兵延期の証拠を出せ 証拠がないではないか ただの推論、想像にすぎない」
  出版社に架かってきた熱狂的ファンの電話(約1時間)
 「証拠は映画の中にある」が私の立場
  ある歴史家からの手紙  本来「やばい」ことなので証拠を残さぬようにやったこと
 
9 その後に私が知った事実

  黒澤勇氏の馘首の真相(1914年昭和3年上野等で開催された「大正博覧会」出展の赤字の引責辞任
  NO2から平常議員への格下げ(1917年 52歳 黒澤は小3 名門校森村から黒田小へ転校)
  窮迫した家庭 東大井から小石川に移転(日高藤吉郎は富久町に居住) 
  臨時の事業の受託等か 2年後桃代が森村小教員(恵比寿に移転)1925年には丙午が映画説明者になる
  家の急な転落への怒りから無産者運動に行った黒澤 『蝦蟇の油』の一般的社会傾向ではない
  閑院宮家へ累が及んだことのための引責辞任ではないか 『悪い奴ほどよく眠る』のヒント
  乗杉純氏(『乱』での法務担当弁護士)に言った黒澤の言葉「描きたいことがあるが・・・」

10 兄黒澤丙午(須田貞明)の経歴と自殺

  秀才だったのに1中に落ち、成城中(陸軍士官学校予備校)に行った丙午 文学趣味から映画少年
  山野一郎の紹介で弁士になり、洋画の若手として人気(番付上位) 弁士争議委員長 双方の板挟み
  二度の愛人との自殺 二度目は梅毒で愛人の子が死んでいること・・・・『静かなる決闘』への影響
  黒澤丙午と三船敏郎のルックスの相似
  二人の梅毒患者 三船敏郎と植村謙二郎・・・・「理想の兄」と「実際の兄」
  戦後ほとんどの作品で三船敏郎を使ったのは、兄への追慕ではないか

要は、『黒澤明の十字架』の要旨と、その後分かった事実である。
これには佐賀におられて戦前からの日本のアニメーション研究の第一人者の西岡さんから質問があり、
「戦技派と自分は名づけているが、こうしたように戦争に積極的に協力したことが、彼らの徴兵延期になったのか」とあり、その通りと答えた。
さらに、終了後、わざわざ私のところに来た方がいて、
「沢山の分からなかったことがやっと分かった、ありがとう」と言われた。
実は、DVDとUSBに入れた映像と画像も使用するつもりだったが、用意されていたPCが上手く使えず、黒澤家の引越しの図のみしか投影できなかったのは、残念だった。
やはり自分が使用しているPCを持参すべきだと改めて思った。

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