『女は二度生まれる』のような風俗映画の意味は

『女は二度生まれる』を見ると、このような「風俗映画」の意味はどこにあったのだろうかと思う。

風俗映画とは、多くは芸者、女給、娼婦、二号、ホステスなどの「水商売の女性」を主人公とした映画で、映画史的には、松竹が多く、大映にもあり、元をたどれば戦前の日活の現代劇でも作られてきた作品群である。

監督としては、溝口健二を始め、成瀬巳喜男、豊田四郎、川島雄三、今村昌平、さらに溝口の系列からは、増村保造、さらにピンク映画、そしてロマンポルノの作家たちに繋がる作家群であり、川島雄三では『夜の肌』『夜の流れ』『女は二度生まれる』『花影』などが、それに当たると思う。

世界の他の国は知らないが、これだけ多くの風俗映画が作られてきた国はないのではないかと思う。

その理由は、大げさに言えば、明治の自由民権運動の活動家の一人でもあった作家北村透谷の言葉だったと思うが、「廓の中にしか、女性の自由、自立はない」からだったと私は思うのだ。

つまり、劇の主人公として自立した女性を描くとすれば、家庭の主婦ではなく、水商売の女性を対象とせざるを得なかったからだと思うのだ。

言わば、日本の女性の自立性の不完全性が、風俗映画の存在理由だったわけと思うのである。

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