先日、黒部ダムに行ったので、石原裕次郎が三船敏郎と共に作った1968年の映画『黒部の太陽』を見るが、意外に良い作品だった。
脚本が監督の熊井啓と井手雅人で、記録的な表現も含め、非常に丁寧に作られている。
ドラマとして見れば、宇野重吉の息子の若い技師の寺尾聡を始め、三船の次女日色ともゑが白血病で死ぬななど、やたらに人が死ぬ映画だが、喜怒哀楽が上手くまじえられていて、3時間以上だが厭きることがない。
戦後、経済の発展による電力需要の増大を見越して、関西電力の太田垣(滝沢修)は、黒部峡谷に日本一のダムを建設することを決意する。
それは、約400億円と、関電の資本金170億円の3倍近くの大工事だった。
建設事務所長は佐野周二で、次長が三船敏郎、さらに建設会社間組の下請けの組の親方岩岡が辰巳柳太郎で、その息子の建築技師は石原裕次郎である。
この辰巳と三船、そして裕次郎が主人公で、彼らが担当した黒部トンネルの難工事ぶりが丁寧に描かれていく。
それは、建設資材、労働者等を黒部ダムの現場に運ぶために、まず作らないけないトンネルで、途中でフォッサマグナの破砕帯にぶつかり、出水と壁の崩壊で工事は進まなくなる。脇の坑道の作成や水抜きトンネルの建設、さらにシールド工法の採用で破砕帯はついに突破できる。
その過程では、戦前の黒部第三ダムで、辰巳らが工夫を暴力で叱咤激励して工事を進め、多くの工夫(そこには中国、朝鮮人も多くいた)を虐待し、死にまで追いやったことも挿入されるが、この辺が商業映画としての表現の限界だろうと思う。
辰巳の子である裕次郎は、父のそうした姿を批判して京都に逃げて、建築家になったのだが、偶然登山に来た黒部の現場で、父がケガで倒れたのを見て、自らも工事に参加することになる。
形式的には三船プロと石原プロという独立プロの作品なので、元日活の監督熊井啓や製作中井景などもいるが、撮影は元岩波映画の金宇満司、録音も独立の安田哲男、美術も、大島渚の『飼育』で途中から降りたという元東宝の平川透徹、チーフ助監督も山本薩夫の下にいた片桐直樹である。
要は、この辺から日本映画のスタッフも、メジャーへの専属制から次第にフリーに変わってきたということだろう。
さらに、これを見ていて気が付いたのは、石原慎太郎と石原裕次郎との兄弟の人間性の差の原因だった。
慎太郎は、東宝の助監督試験に合格したが、『太陽の季節』の芥川賞受賞で有名になり、東宝には一か月しか行かず、そのまま作家という個人事業者になり、自分勝手に生きることになる。
一方、裕次郎は日活に入り、自由に振舞ったようだが、映画の製作には、スターやチーフのスタッフは勿論のこと、脇役から大部屋俳優、助手の多くの技術者の多数の人間によってつくられるものであり、それを良く学んだようだ。
特に、当時は現在とは異なり、スタッフの数は多く、裕次郎作品のような大作では、恐らく200人以上がいたと思う。
そうした共同作業で作る映画の現場にいたことが、その後の石原裕次郎の豊かな人間性を作り出したのだと思う。
その結果、裕次郎の石原プロは今も存続しているが、自殺した中川一郎から石原慎太郎は青嵐会を受け継いだが、すぐに誰もいなくなってしまうのである。