黒沢明は何故戦争に行かなかったのか

黒沢明の『静かなる決闘』という面白くない映画を、今はない横浜ニュースという古い映画館で見ていたとき、そう思った。
彼の同世代やその下の監督連中も、皆徴兵され戦争に行っている。
だが、黒沢は行っていない。
監督堀川弘通さんの回想によれば、黒沢に聞いたところ、「徴兵検査で撥ねられたのだ」そうだ。だが、あの偉丈夫の黒沢が検査で撥ねられたとは到底思えない。

黒沢が徴兵されなかったのは、東宝の力だったと私は推理している。
戦時下、東宝は最も戦争に協力的な会社であり、戦意高揚の劇映画はもとより、第二撮影所(後の新東宝)では軍注文の教育、マニュアル映画を作っていた。
銃の操縦法から、大砲の照準の付け方等をアニメーションで解説するもので、円谷英次、うしおそうじと言った戦後、特撮やアニメの第一人者となる連中が従事していた。その他、空中撮影映画など、様々に軍に積極的に協力し、軍のおぼえめでたい会社だった。
その中での黒沢明である。
当時、東宝の責任者であった森岩雄らが軍にお願いし、黒沢の徴兵を猶予して貰ったのだと私は考えている。多分、それはせっかく日活から引き抜き、将来を期待していた山中貞夫が、中国であっけなく死んでしまったことがあったのだと思う。
黒沢だけは、東宝と日本映画の将来のため戦争に行かせられない。

勿論、証拠はない。しかし、戦後の黒沢映画は、異様に「戦争と戦争での心の傷」に拘っている。戦後の黒沢映画は、すべて「戦争映画」である。
『静かなる決闘』の三船敏郎がそうだ。戦場での傷から梅毒になって苦しむ医師の話だが、何故こんなに戦争に拘るのか、私には理解できなかった。
黒沢が、何らかの力で戦争に行かなかったことを自らの責任のように思っていたとしたら、すべては容易に分かる。
『七人の侍』の勘兵衛の「また、生き残ったな」という台詞も、戦争に行かず生き残った黒沢の苦渋である。

黒沢の映画は、戦前と戦後では全く作風が異なる。
戦前の黒沢は、『姿三四郎』など、大変面白い作品だが、最上級の娯楽映画であり、言ってみればマキノ雅弘や森一生のようなタイプの監督である。
ところが、戦後は一変してシリアスな作風になる。それは、彼の戦争への複雑な思いからだと思う。

勿論、森岩雄らが黒沢を戦争に行かせなかったのは、正しいことである。
戦後の素晴らしい作品を世界中の人間が見られたのだから。
しかし、黒沢の心は違っていた。戦争に行かなかったことを苦しんでいたのである。

だが、昭和30年代も半ばになり、日本の社会から戦争の記憶がなくなると、大変皮肉にも、黒沢は精神的緊張や倫理性をなくしてしまう。
その意味では、『天国と地獄』が最後のまともな作品である。
『赤ひげ』では、すでに異様な精神状況の作品になってしまう。
そして、志村喬、三船敏郎、さらに早坂文雄といった同志的スタッフ・キャストがいなくなると、黒沢は天皇と言われ、その実「裸の王様」にされてしまう。
その後『暴走機関車事件』等、世界進出の失敗を経て、急速に作品はつまらないものに低下する。

明治以降、日本人が味わった最大の事件は、言うまでもなく戦争と敗戦であり、それを最も優れた映画として作品化したのは、黒沢明であることは間違いないことである。

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コメント

  1. 牛嶋英俊 より:

    戦争犯罪と黒沢
    黒沢作品観、大いに同感するところがあります。じつは七人の侍のなかで、捕われた野武士を老婆が撲殺するシーンがあります。それまで農民によるリンチをやめさせようとしていた侍も、「息子の仇だ」という爺様の言葉に、静止するのをやめます。
    これと重なるのが、戦争中に墜落した米軍パイロットの住民による殺害です。当事者は戦死や空襲で死んだ兄弟家族の仇だとして、行動したとの証言がありますが、黒沢はこのへんを踏まえたと考えるのは、深読みにすぎるでしょうか。お考えなど伺えればとぞんじます。(目下、墜落米兵について研究している者です)

  2. さすらい日乗 より:

    『七人の侍』の最後の台詞でも
    『七人の侍』の最後の志村喬の台詞、
    「また、負け戦だったな・・・
    勝ったのはわしたちではない。
    勝ったのは百姓たちだ」
    と言う台詞も、本当は「勝ったのは云々」ではなく、
    「戦ったのは百姓たちだ」と言う、
    自分は『一番美しく』で、戦意高揚映画を作ったのに、自分は戦争に行かなかった黒澤の苦渋の表現だったと思っています。

  3. 匿名 より:

    つまらない黒澤映画について
    私は今既に中年を半ば過ぎた年齢におるものです。
    私の思春期、青春期にかけてが所謂黒澤作品の最晩年のころにあたると思います。正直言って、この人物が大監督、天皇と呼ばれる意味がまるで理解できませんでした。
    彼のその頃手がける映画は若い私の感性に何も残さず、不快でつまらないものばかりだったからです。
    本日、管理人様のBLOGに辿り着き、貴重なご意見をいただき大変感銘させていただきました。
    ありがとうございました。

  4. 是非、見てください
    『静かなる決闘』は、今はTSUTAYAにありますので(東宝ではなく、角川ですが)、是非見てください。

    黒澤も、こんな映画を作ったのか、と思うと感動すると思いますので。
    ついでに愚作の『夢』の第4話の「トンネル」も見てください。

    本来、黒澤明は、天皇でも、神様でもなく、気の弱い芸術家なのです。

  5. SL-Mania より:

    黒澤監督の失敗作
    さきほどはお立ち寄りありがとうございます。

     拝読させていただき、なるほどと感心致しました。そう黒澤監督は徴兵されていませんね。同年輩の山本薩夫監督や今井正監督なんかは徴兵されていますし、ご指摘の山中貞雄監督は戦病死していますね。

     東宝のコネなのか、体の欠陥(案外目だったりするかもしれません)があったのかは、私にもわかりません。

     さて、1944年の「一番美しく」よりも本作は、私にとっては面白くなかったです。

  6. 恐らく黒澤が
    徴兵はおろか徴用もされなかったのは、戦意高揚映画『一番美しく』とのバーターだったのではないかと思います。
    勿論、黒澤は知らなかったでしょうが。

    だから、この戦争に行かなかったことの悔恨が、戦後の異常なほどの民主主義賛美と反戦になり、さらに東宝ストが終わったあとは、贖罪意識の表現となったのだと思います。

    詳細は現代企画室から今月末に出る『黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』に書きましたので、是非読んで下さい。

  7. 木村卓治 より:

    たぶん…
    「黒澤明vsハリウッド」(田草川弘 著)の中で黒澤が先天的なてんかんであることが記されています。黒澤も自信でそのことを認めている記述があります。

    私も長い間、体格の良い黒澤がなぜ徴兵されなかったかを疑問に思っていました。「東宝が圧力…」に近いことを考えたこともありました。でも、貴族や財界人の子息まで身分に関係なく軍務に尽かされていたことを考えると、たかが新人監督を特別扱いしたとも思えません。やはり、てんかんが原因であったのではないでしょうか。

    黒澤は日本が誇る世界的な存在です。しかし、「黒澤明vsハリウッド」の中で源田実と会うくだりがあるのですが、黒澤は源田の迫力に圧倒されていたようなのです。この部分を読んだとき、黒澤よりももっと大きな人物がいるのだな、黒澤は芸術の世界での巨人でしかないのだな、と思いました。

    そうはいっても、三船と組んでいた時代の黒澤作品が大好きなことにかわりはないのすが…。

  8. 黒澤が徴兵されなかった理由は
    『黒澤明の十字架』でも述べたことですが、徴兵されなかった原因は、実はどうでも良いのです。

    結果として、彼が徴用もされず、そのことを戦後ずっと負担と思っていたことが重要なのです。
    それは、晩年の『乱』『影武者』『夢』の中の「トンネル」にまででてくるのですから驚きです。

  9. 証言もあります
    石井輝男は、第二撮影所にいたので、「軍用という名目で2,3回も徴兵延期してくれた」と言っています。
    さらに宮島義勇は、森岩雄が「宮島は必要な男だから」延期してくれたと自伝で自慢しています。
    因みに延期とは、実質は徴兵免除になります。

    詳しくは、拙書『黒澤明の十字架』をお読みいただければ幸いです。www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7738-1304-3.html から購入できます。