『昭和史裁判』 半藤一利・加藤陽子(文春文庫)

昭和史裁判と言って、いきなり歴史を裁くことはできない。そこで、昭和の政治史で活躍した5人を半藤が検察官、加藤が弁護人になって証言する。裁くのは読者というわけである。

裁かれるのは、広田弘毅、近衛文麿、松岡洋祐、木戸幸一、そして昭和天皇である。

広田は、東京裁判で文官中唯一絞首刑になった者で、城山三郎の『落日燃え』もあり、人気が高いが、もし近衛が自殺せず、東京裁判に出ていたら、近衛が絞首刑で、近衛の身代わりだったろうとのことで、「無定見な政治家」とのことで評価は極めて低い。

近衛文麿は、昭和初期に最も人気が高く、また首相を辞めた後は評価が下がった人間だろう。それは、彼の血を引く細川護熙元首相の人気と突然の辞め方にもよく似ている。要は、貴族、お殿様なのだ。

政治的な評価は別として、近衛文麿がどんな音楽を聴いていたかで、弟秀麿の縁もあり、クラシックだろうとのことで浪花節などは知らなかったようだ。

その点は、東大教授だったが、出は下町の酒屋だったので、『愛染かつら』の『旅の夜風』が愛唱歌だった経済学者河合栄次郎とは異なるところだろう。河合の『旅の夜風』は、福田善之の劇『長い墓標の列』に出てくる。

松岡洋祐は、昭和天皇が非常に嫌った人間だが、結構複雑な見方があるようだ。日ソ中立条約についても、ことは単純ではないようだ。だが、天皇は松岡を非常に嫌い、「彼は気が狂ったのではないか」と言ったのは有名である。

木戸幸一は、内大臣で昭和天皇の最側近で、昭和19・20年ごろは、他の者を一切寄せ付けず、天皇唯一の相談役として振舞い、重臣たちからも評判は悪かったのは意外だった。

また、アメリカとの戦争について、近衛は大反対だったようだが、木戸幸一と昭和天皇はやむなしとの立場だったようだ。だから、一部で近衛文麿は、昭和天皇と木戸の罪を被って自殺したので、一番戦争責任があるのは、木戸と昭和天皇だという意見もある。

一番の難問は、言うまでもなく昭和天皇で、アメリカとの戦争については、積極的には賛成ではなかったようだが、中国との戦争(支那事変と言い、日本、中国とも当時は戦争にはしていなかったのは、アメリカに中立でいられるためだった。これは結果としては、持久戦法の中国に有利になる)については、反対ではなかっようだ。個々の戦局で具体的な指示・命令を与えていて、その意味では統帥権を行使していた。

いずれにしても、戦前の日本人全体にあったのは、中国への敬意で、上は天皇から普通の庶民に至るまで、中国と中国人を蔑視していたのが最大の問題だったと思う。特に、満州事変で簡単に張学良の東北軍を短期間で破ったことで、「中国軍は弱い」と皆思い込んだ。

だが、支那事変当時になると、蒋介石率いる国民党は、 なんとドイツから軍事顧問団を招き、チェコ製の銃を使用していたのだから、「三国同盟は何だったのだ」といいたくなる。

木戸幸一は、戦後は大元帥としての責任はあるとして昭和天皇の退位を考えていたようだ。

だが、それは米国の日本占領が終了した時期で、このとき現在の皇太子はまだ若かったので、無理だった。

あるいは皇太子を天皇にさせ、自分は関白的な存在になるつもりだったのかもしれないとさえ邪推してしまう。そのくらいこの人の考えていることはよくわからない。

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