森繁久弥が死んだ、96歳。
誰がなんと言おうと、彼が昭和芸能史最大のスターであることは間違いない。
あの立川談志ですら、NHK・BSの『昭和芸能史』でも「最後は彼しかいません、森繁久弥です!」と言った。
森繁久弥と言うと『夫婦善哉』と来るが、同じ豊田四郎監督から『如何なる星の下に』の方が遥かに面白い。
言うまでもなく、高見順の戦前の浅草が舞台の小説を、昭和36年の佃島のお好み屋の話に変えた映画で、脚本は八住利雄。
主人公は長女の山本富士子、次女は売れない歌手池内淳子、三女でNDTのダンサーが大空真弓。
池内と出来ていたが彼女を捨て、喫茶店主の淡路恵子に行き、最後は大空とも出来てしまう軽薄な歌手が植木等。
山本の相手役の主人公の商業デザイナーは池部良で、最後はやはり結ばれない。
山本の父で元太神楽の芸人が加東大介、母親は三益愛子。
加東が中気で動けなくなり、山本に尿の世話を哀願し、最後には三益が酒乱で暴れるのも、豊田得意のブラック・ユーモアで、最高。
森繁への批判を書いておけば、古川ロッパは、森繁及び戦後派の喜劇人について、「皆卑怯であることを売り物にしている」と言ったそうだ。
いかにも貴族の末裔らしいプライドの高いロッパの批判だが、良く考えれば、戦後はすべてのものが、卑怯な知恵の下に働いて来た。
卑怯と言えば聞こえが悪いが、智恵が働くと言えば良いだろう。
昭和天皇以下、誰もが敗戦の責任を取らなかった日本の戦後の社会は、まさに無責任社会である。
森繁久弥の新しさは、卑怯な人間、愚かしい人間を演じて大スターになったことだ。『夫婦善哉』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』、みな愚かしく、嫌らしい人間ばかりであり、それが戦後の日本人男性の典型なのだ。
戦前を代表する大スター阪東妻三郎が、堂々たる正しい人間、無学でも素直で愛嬌のある男を演じたのとは、全く逆なのだ。
スケベでケチで、それでいて妻や愛人に嘘を見抜かれている男である。
その意味で、森繁久弥は無責任、道徳のない戦後社会の象徴であり、その最初の役者である。