言いようがない 演劇ジャーナリスト徳永京子の評について

朝日新聞の昨日の夕刊で、徳永京子という演劇ジャーナリストなる人が、岡田利規の『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を大変高く評価している。
「へえー世の中には、いろんな人もいるものだね」と思う。

そして、思い出したのは、アンデルセンの『裸の王様』である。
ある国に二人の詐欺師が来て、「これは新しい服だ」と言って王様を裸にし、
「見えない服ですよ」と王様と宮廷の人間たち全員を騙して金を取る。
そして、王様が自慢げに外に出たとき、
子どもが「王様は裸だ!」と叫び、詐欺がばれてしまう。

勿論、詐欺師が岡田利規であり、騙されている王様は、徳永らである。
徳永は、「質の高い茶事に招かれたような体験」と評しているが、岡田の劇のどこに精神世界が存在しだろうか。
ひどく感性が鈍いな私には、何も感じられなかった。

一体、いつから演劇ジャーリストとか、演劇ライターとか、映画レポーターとか、おかしな名称を使う人間が生まれたのだろうか。
こういう人は、大変失礼だが、最初からものを書くことの心構え、責任を放棄しているとしか言わざるを得ない。
ものを書き、公に発表することは、おおげさに言えば、書いた自分に対し、批評した対象から弾丸が飛んでくることを覚悟することである。
ライターとかレポーターと称することは、最初からそれを放棄し、「私は批評家や評論家ではないので、反論しないでください」という逃げ口上を作っている。
そんな人の書くことを信じられるだろうか。
まるで、ワイドショーに出てくる、芸能レポーターやコメンテーターと同様の、ただの業界の太鼓持ちに過ぎないのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. 岡田利規 より:

    ていうか
    僕の人名間違えないで下さい。。

  2. さすらい日乗 より:

    それは失礼しました
    名前を間違えて失礼しました。
    これからは、気をつけます。