一昨日見た『無法松の一生』も、前は気づかなかったが、『狐がくれた赤ん坊』も、大谷直子の父田武謙三が、娘と勝新の結婚を示唆された時、こう言う。
「うちは、元は大阪の大店の家柄なのだ、あんな川越人足に娘がやれるか」
要は、昔の映画や大衆劇には、このように階級的差から結ばれない悲劇が多数あった。
それは言うまでもなく、結婚が家の間のもので、当人同士の愛情の結果ではなかったことを示すものである。
人力車夫の松五郎が陸軍少尉未亡人に懸想をするのは、恐れ多い事であり、だから1943年の阪妻の無法松、園井恵子版では、削除されたのだ。
戦後、民主主義と自由戀愛の普及で、階級を超えた恋愛は一般化したと思う。
その象徴が、1957年の当時の皇太子様、現在の天皇と正田美智子さんとのご婚姻である。
その証拠に、当時に作られた谷崎潤一郎原作の大映の山本富士子主演の映画『細雪』では、三女の雪子は誰とも結婚せずにエンドマークになる。
原作の、多くのお見合いをした挙句に、元華族の息子と結婚すると言うのは、むしろ反時代的になので、そのようには作れなかっのである。
1970年代以降で、この階級差的恋愛劇を作り続けたのは、言うまでもなく山田洋次監督、渥美清主演の『男はつらいよ』である。
この『男はつらいよ』の先行的作品である、ハナ肇主演の『馬鹿まるだし』では、ハナが『無法松の一生』を見るシーンがある。
明らかに『男はつらいよ』シリーズは、『無法松の一生』を元にした作品だと思う。
現在、恋愛における階級的障壁はなくなったのだろうか。
1980年代末のバブル期を経て、再びそれは強化されたように思える。
婚姻者の減少が、少子高齢化の原因のひとつとされて長いが、恋愛、そして婚姻における階級的障壁を打ち破って行かないと当分現状は変化しない。