2013年に出した『黒澤明の十字架』や去年の『小津安二郎の悔恨』について、裏目読み批評ではないかと言われることがある。
裏目読み批評とは、1960年代に『映画芸術』の編集長小川徹がとなえた批評法だが、私の意図は少々違う。
よく言われることに、映画の製作の裏やもともとの意図などどうでもよく、できた作品だけで評価せよだとの説がある。
まあ、完璧な間違いではないが、それは映画と文学、音楽、美術などとを混同する間違えである。
なぜなら、基本的には作者個人の力で作品が作れるのが、文学、音楽、美術などである。
音楽でもオペラなどになれば、作曲家一人ではできないが、曲を作るのは、原則として一人でも可能だろう。
だが、映画や演劇にあっては、一人で作品を作れることはまずありえない。
スタンリー・キューブリックやオーソン・ウエルズ、あるいは黒澤明でも100%自分の考え方で作品を作ることができたことはないに違ない。
なぜなら、映画は、監督や脚本家の他、カメラ等のスタッフ、そして実際に役を演じてくれる俳優、そして膨大な費用を出してくれる金主、つまり映画製作会社が必要だからである。
つまり、できた作品は、多かれ少なかれ、作者の意図を100%表現されることはない。
様々な他人の考えが、結果として作品には入ってしまうものなのだ。
だから、映画の批評、評価にあっては、その作品の奥にあって、本当は作者たちが表現したかったものを考える必要があるのだ。
そこに「裏目読み批評」の意味があると私は思う。