『無法松の一生』(勝新太郎版)

1965年の大映映画、主演は勝新太郎で、彼は阪東妻三郎を尊敬していたので、『王将』も、大映が潰れた後に東宝で演じている。彼は、長谷川一夫も尊敬し、初期には真似ていたのだが次第に自分と長谷川の違いに気づいたのだろう、阪妻の方の真似をしたのは正解だったと思う。

小倉の商人宿に伊達三郎の巡査が来るところから始まる。宿の主人は戦前から東宝の俳優だった柳谷寛で、伊達と言いこの映画の俳優は非常に渋くてよい。ここには、知的障碍者のボンさんという口のきけない男がいるが、当時の福祉施策だともいえる。無法松が芝居小屋で騒動を起こした時に、仲裁をする親分結城重蔵が宮口清二で、これも適役。

町で竹馬から落ちて足を挫いた子供を背負っていくことから、陸軍軍人の吉岡小太郎家との付き合いが生まれる。小太郎は宇津井健で、妻は有馬稲子、小太郎は、松五郎を呼んですごした酒席で「ひどく寒い、寒い」と言い、座敷で寝るとそのまま死んでしまう。

こうして松五郎と息子、そして有馬との付き合いが生まれる。

この勝新太郎、監督三隅研二版は、下層の人や風俗の描写が一番に良いと思う。さすが大映の美術である。

その中で、松五郎は馬喰の子だったが、母親は二度目の女で、松五郎は彼女から虐められ、家出したことが回想される。つまり、無法松は、虐待された児童だったのだ。このように継子虐め、児童虐待は、明治時代には頻繁にあったものだったのであり、急に現在に起きたものではない。

息子は順調に育って小倉中学から熊本五校に行き、夏休みに戻ってくると、有名な小倉祇園太鼓のシーンになる。

この太鼓は、祇園という花柳界の名が表すように本来は優雅なお座敷芸なのだが、それでは映画にならないと、稲垣浩監督が音楽の専門家と相談して作ったもので、本当は「カエル打ち」なのである。

阪妻の後の三船敏郎、さらに三国連太郎版でも使われているが、この勝新太郎版の太鼓連打が一番うまいのは、当然のことだろう。

最後、無法松は、有馬のところに来て、「私の心は汚い」と言って有馬の手を握り、すぐに身を翻すと家を去ってゆく。『シラノ・ド・ベルジュラック』とも言えるが、後の『男はつらいよ』のモデルだともいえる。

戦前の日本は今とは考えられない階級社会で、軍人の地位は高く、人力車夫は最下層のm人間だった。原作の岩下俊作は、元はプロレタリア作家だったので、人間の平等を密かに訴えているのだと思う。

ここでおかしいのは、有馬稲子の台詞廻しで、新劇的に自然に言っているが、これはもともと新派的な劇なのだから、リアリズムで言われても困るのである。

日本映画専門チャンネル

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