『ミュージック・マガジン 7月号』の182ページに、「仰天した『マリアの首』 日本戯曲の力シリーズを見て」が掲載された。
新国立劇場の「日本戯曲の力シリーズ」の『白蟻の巣』『城塞』、そして『マリアの首』については、ここにもそのたびに書いてきたが、今回はその全部について書いた。
勿論、私はこうした過去の作品を上演することは大賛成である。
歌舞伎をはじめ、多くの古典とされている名作も、何度も再上演され、その度に工夫や改編が加えられて名作となって来た。
特に歌舞伎の場合は、役者たちの工夫によって新しい型が生まれ、それが継承されて来た。
新劇、さらに1960年代のアングラ演劇以後では、ほとんどそうしたことがなかった。
晩年の数年間、蜷川幸雄が行ったのが、少ない例だろう。
さて、今回のシリーズはどうだったのだろうか。
『白蟻の巣』と『城塞』は、まあまあのできだったが、『マリアの首』は最悪だった。
田中千禾夫の詩劇的な名作が、飯場の人間の怒鳴りあい劇のようになっていたのだから、「そりゃあんまりでしょう」と思ったのである。
確かに、この劇に出てくるのは、娼婦、ヤクザ、傷痍軍人などで、ある意味で飯場の怒声になるのは無理もないことかもしれない。
だが、そうした知性とは無縁の人間に哲学的、あるいは観念的な台詞を言わせるのが、田中千禾夫のシュールなことろなのだ。
そして、それは唐十郎に大きな影響を与えていると私は思う。
小川絵莉子の「怒鳴りあい劇解釈」は、まったくの間違いだと私は思うのである。