先週、土曜日に京都大学で日本映画学会第13回大会が開催された。
最初に出たのは、千葉大の古舘嘉さんの「亀井文夫は戦争末期に何を描いたのか」で、1945年に亀井が電通映画社で作った『制空』についての発表。
良く知られているように亀井は、『戦う兵隊』によって監督資格を白奪され東宝も辞めていたが、1945年に中島飛行機半田工場で、徴用工や見習工を主人公に記録映画を作った。
この事情から亀井は監督ではなく脚本で、監督は中川順夫となっているが、実際は亀井が撮ったようだ。これは公開されず、フィルムも行方不明だったが、工場長の遺族がフィルムセンターに寄贈し1997年に上映されたそうだ。これについては大変に興味深いが、私は見ていず、半田市郷土誌研究会がDVDを頒布していて、申し込んだので、見たら書くことにする。
午前中はもう一つ、京都大学の藤原征生氏の「芥川也寸志の映画音楽戦略」で、彼と団伊玖磨、黛敏郎と「3人の会」を作り、映画会社各社で自由に音楽を作ると同時に、新作の発表も行なった。
その中で映画音楽は彼にとって重要な位置を占めた。オステイナートと呼ばれる技法で、あるメロディーを繰り返して次第に盛り上がる構成は、『たけくらべ』『花のれん』、『ぼんち』等の試行を経て、テレビ大河ドラマの『赤穂浪士』で頂点に達する。
テレビの最終回の討ち入りの映像も披露されたが、大石内蔵助の長谷川一夫以下の豪華キャストで今も生きているのは、舟木一夫と林与一くらいで、「ああ時が経ったのだな」と思う。
芥川の重厚で暗いメロディは、戦時中を軍楽隊で暮らした戦場での体験が反映していたはずで、それがうたごえ運動や新交響楽団への戦後の活動の根底になったのだと思う。
午後は、小津安二郎2本で、東大の具さんの「小津映画の無人ショットをめぐる言説」には頷けなかったが、一橋大の正清健介君の「小津のトーキー移行の遅延問題」は面白かった。
小津の盟友ともいうべき五所平之助は、「監督は役者が台詞を話すまでをどう持っていくかが演出で、台詞になったら役者のもので、どうしようもできない」と言っている。
画面を完全に把握したかった小津にとって完璧に映画全体を支配できるまで、トーキーへは遅らせたのではないと私は思う。
さらに、松竹の土橋トーキーも、茂原トーキーも、今日聞いてみると、音はかなりひどくて台詞はよく聞き取れない。そんな程度の状況では小津がトーキーに踏み切れなかったのも、仕方ないことだったと思う。
午後の「ヒチコックを今どう語るか」では、関大大学の堀潤之先生の「芸術とは、それを通して形式がスタイイルになるもののことだ」は、ヒチコックについての言葉だが、まさに小津安二郎についてのものだとも思う。
懇親会は京大楽友会館で、ここは京大交響楽団のフランチャイズだったはずで、東宝監督丸山誠治も、メンバーだったはずだ。1936年の助監督試験の時、「絵の分かる者として取ったのが黒澤明で、音楽の分かる者として取ったのが丸山だ」と山本嘉次郎が言っていたはずだ。
21世紀は、趣味コンベンションの時代だと昔から私は思っていたが、本当に実感した一日だった。