公貸権(公共貸与権)の間違いについて

なぜか、近年公共図書館を問題視している作家・三田誠広氏が、約2年前から方向転換し、図書館の非をあげつらうのを止めて、しきりに図書館と「共闘」しようと提唱しているのが欧州にある「公貸権」である。
しかし、この議論の一番おかしなところは、公共図書館の貸出による本や雑誌の販売被害が一度も実証されたことがない点である。制度の問題より、その必要性がまず問題なのだ。被害が不明な段階で、補償も何も始まらないのは当然。

2003年に図書館協会と文芸家協会等が共同して「公共図書館貸出実態調査」を行った。
結果は、詳しくは記憶していないが、意外にも「複本」の数が少なかったこと。一部の芥川賞・直木賞等の話題本の貸出は多いが、いわゆるベストセラーのみに貸出が偏っているわけではないこと等であった。
確かに一部ベストセラー本は、大都市の図書館では大量の予約待ちがあるようだ。しかし、もともと多数売れている本なのだから、販売に影響するものではない。

一般に本など、文化・芸術・学術等は、それぞれが固有の作品であり、商品としては極めて代替性のないものである。山本周五郎作品がないからと言って、松本清張の小説を借りるわけにはいかない。プレスリーのレコードがないからビートルズのCDを買うものでもない。それは、ピザがないからスパゲティーを注文するのとはわけが違う。一つのパイを分け合うのではなく、それぞれの本は、それぞれに固有の読者、市場を持っているわけだ。
だから、いくら公共図書館でベストセラー本を大量に購入し、貸出したからと言って、当該本そのものの売れ行きには影響しないし、また他の本の売れ行きや貸出にも影響しないのである。
これは、文化・芸術の固有性から考えれば当然のことであり、そうした固有の価値を認めているからこそ、著作権法では、著作物は他の商品よりはるかに優越した権利を認められている。また、再販制も同様の趣旨だろう。

だから、公貸権論のおかしなところは、そうした文化・芸術の固有性を否定し、一商品としてのみ本や雑誌を見るところにあると思われる。言わば作家が、自分で自分たちの作品の価値と固有性を否定するものなのである。
そこがきちんと整理、実証されない限り「公貸権」など、絶対に許してはならない。

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コメント

  1. 生ける屍 より:

    「専業作家」の終わり
    連日、駄コメントを投稿して申し訳ありません。たまたま、さすらい氏の最近のエントリーに関連することを自分も普段から考えていたもので。

    近年の「作家VS図書館」ですが、言わずもがなですが、背景にあるのは、現在進行しつつある、原稿料と印税を主収入にする「専業作家」という職業が存亡の危機にある、という歴史的事態でしょうね。
    気の毒ですが、彼らも相当に焦っているわけです。

    「デフレ」「活字離れ」「多媒体化」「出版社の戦略も手伝っての一握りのベストセラーへの消費者の雪崩現象」等々のファクターは、もはや押し留めることはできますまい。しかも、「払えない」(無い袖は振れない)のか「払わない」(ライターへの分配率の上昇を据え置いてきた?)のか、「原稿料」の相場は物価上昇率に比較してとても低い次元でしか推移して来なかったそうですし。

    手許にデータがありませんが、正直、電子ブック・ケータイ小説などの商品も「専業」の生き残りの追い風になるとは思えません。
    (仮にあれらが大きな市場になったとして、もはやそれは従来型の活字・書籍とは異なる新たな「コンテンツ」なるシロモノに過ぎないでしょう)

    僕自身は従来型の「書籍」が消滅することはないと思っていますし、出版市場における図書館の果たすべき役割にも意見はありますが(前にも書きましたが、所詮は一般的な出版物1冊あたりの採算部数など低いものなので、図書館がもっと本を買えば良いのです)、残念ながら「専業作家」自体は滅び行く商売と言わざるを得ないでしょう。
    現に今でも、有名ライターでも「活字」の収入だけで生活している人間などどれだけいるのか・・・。

    ※ただ、故松下竜一氏によると、教科書などに作品が載った場合の「印税」などはとても低いそうで、松下氏などは晩年「教科書の印税さえまともに支払われて
    さえいれば、私は年収200万などということは有り得ない」とブツブツ仰っておりました。
    最近も教材業者との取り決めがニュースになったりしていますが、こういう点は確かに改善されてもよいと思う。

    以上、長々と書いてしまいましたが、万が一「専業」の方がご覧になれば大変に気分を害されるコメントだったかもしれません。どうかご容赦のほどを。