この時期になると、喪中葉書が来るが、相模原の林さんという女性から来たので、誰かと思うと林穎四郎さんの奥さんからで、夫の穎四郎が9月8日に亡くなられたとのことの報せだった。
私は、林さんを直接には知らず、かつて東宝が持っていた航空教育資料製作所について、林さんが専門誌『映画テレビ技術』に2006年に書かれた論文「日本映画のミッシング・リンク」で知ったのである。
1930年に生まれた林さんは、日大を出て東宝に入り、録音部で活躍された。入ったときに最初に付いたのは、黒澤明の『生きる』だったそうだ林頴四郎経歴が、その後黒澤作品に付くことはなく、以下のように多様な作品を担当されている。
- 録音
- 1965.10.31 大冒険 東宝=渡辺プロ … 録音助手
- 1971.04.29 だまされて貰います 東宝=渡辺プロ
- 1972.08.12 海軍特別年少兵 東宝映画
- 1973.03.17 ゴジラ対メガロ 東宝映像
- 1973.11.17 野獣狩り 東宝映画
- 1973.12.29 グァム島珍道中 東宝
- 1974.04.06 しあわせ 東宝映画
- 1976.01.17 妻と女の間 東宝映画 製作協力:芸苑社
- 1977.05.28 白熱 東宝映画
- 1979.04.28 乱れからくり 東宝映画
- 1980.08.30 地震列島 東宝映画
彼は、日大の先輩の録音マンの藤好昌生をはじめ、『ゴジラ』のカメラマン玉井正夫、アニメのうしおそうじらをヒアリングして、2006年に「日本映画のミッシング・リンク」として、航空教育資料製作所の全貌を明らかにしたのである。
私は、この林論文の存在を知り、フィルムセンター図書室で読み、これも大きな基礎資料の一つとして『黒澤明の十字架』(現代企画室)を書き、黒澤明が戦争に行かずに済んだことの背景を明らかにしたのである。
拙著を送りすると林さんご本人からお電話があり、当時それを書いた時、「今更なんでこんなことを書くのか」と言われたともおっしゃっていた。
日本映画史の隠れた部分を明らかにした方のご冥福をお祈りする。