「不如帰」は、明治、大正時代は大変に人気の物語で、小説の他、新派の大ヒット劇だった。
まずは、1922年の松竹蒲田の池田義信監督作品『ほととぎす』は19分しかないが、「なぜ人間は死ぬのでしょう、千年も万年も生きたいわ」の逗子海岸のシーンはきちんと残っている。要は、良いところ以外は捨てたのだろう。主演は岩田祐吉と栗島すみ子で、栗島は後に監督の池田と結婚して引退したことは有名。
次は、1932年に作られたオリエンタル映画社のトーキー作品。オリエンタルは、戦後もあったフィルム会社で、監督は田中栄三だが、驚くのは脚本は森岩雄である。
時代的には第一次上海事変が起きた直後であり、最後は戦時色が出てくるが、風俗的には都会のモダン生活で、この10年間の日本の風俗の変化は、関東大震災もあり、非常に大きかったことがよくわかる。池田作品では、女性で洋装なのは看護婦だけだったが、トーキー作品では女性も洋装が主になっている。
森岩雄は、中学の頃からの『キネマ旬報』などへの投稿少年で、黒澤明の兄の須田貞明とも友人だった。
須田は、サイレントの人気弁士になり、弁士ストライキの時は委員長もつとめる。だが、愛人の児の死なども重なって愛人と情死する。須田の弟黒澤明がPCLの助監督試験を受けた時、森は、大卒でもなく、26歳と年が食っていた黒澤明を入社させた人情家だったと私は思う。
この時、黒澤明は、「人事担当課長から執拗に質問されて不愉快だった」と書いているが、森の指示で「出来レース」にされていたことの課長の抵抗だったと思う。
浪子は水谷八重子(初代)、武男は大日向伝で、この人はルックスは外人みたいで良いが、台詞があまく、次第に人気を失い、松竹から東宝に行き、最後は東映にいたが、別に銀座でラブホテルをやっていたと笠原和夫の本にある。
サイレント映画とから見れば格段の差があるが、まだ録音のためかカメラの動きに制限があり、「ここでカットを変えれば」と言うところも据えっぱなしで、もどかしい感がある。
最後は当然にも、浪子は結核で死んでしまい、戦地の上海にいた武男も負傷して、死に目に会えず、さらに南方に出てゆくところで終わる。
武男の部下の兵士として大辻伺郎と松井翆声、友人として古川ロッパが特別出演。
長瀬記念ホール OZU